子育ての費用を計算すると、子どもは家計簿上、間違いなく巨大なコストである。金銭的リターンはほぼない。それなのに、なぜ人は子どもを持つのか——この問いに、家族経済学と幸福研究は半世紀かけて、かなり意外な答えを用意していた。
「子どもは労働力だった」時代から「値段のつけられない存在」への大転換、子どもが親にもたらす効用のカタログ(Value of Children研究)、そして「親は幸福なのか」論争に決着をつけかけた2014年のパネル分析まで。家計簿に載らない価値の測り方。
まず、身も蓋もない事実から確認しよう。現代の子育ては、投資として見れば明らかに赤字である。
米農務省の有名な試算では、子ども1人を17歳まで育てる費用は約23万ドル(教育費・大学費用を除く)。日本でも養育費・教育費を合わせれば数千万円規模になるとされる。一方、子どもが親にもたらす金銭的リターンは、現代の先進国ではほぼゼロに近い。仕送りを期待して子どもを持つ人は、もはや少数派だろう。
だからこそ「子どもはコスパが悪い」という言説が成立してしまう。だがこの言説には、経済学の視点から見ると奇妙な前提が隠れている。支出があるものには価値がない、という前提だ。旅行も、映画も、ゲームも、外食も、推し活も、すべて純粋な支出である。金銭的リターンはない。それでも人は喜んで払う。効用があるからだ。
ならば問いはこう変わる。子どもという「支出」は、親にどんな効用をもたらしているのか。そしてなぜ、その効用は家計簿に映らないのか。
先にひとつ断っておきたい。この記事では子どもを「経験消費」「コンテンツ」という経済学の比喩で語る場面があるが、これはあくまで親側の効用を分析するための比喩であり、子ども本人が独立した尊厳を持つ人格であることとは別の話である。比喩は分析の道具であって、人間の値付けではない。
家計を経済分析の対象にしたのは、ノーベル経済学賞を受賞したゲーリー・ベッカーらの家族経済学だった。
ベッカーやシュルツの分析では、子どもは単なる出費項目ではない。親の効用関数に直接入ってくる存在——つまり、それ自体が親の満足を生む「財」であり、同時に教育投資の対象となる「人的資本」でもある。家計は所得と時間の制約の中で、子どもの数と、1人あたりにかける質(教育・時間)を選択している、と考える。
この枠組みの含意は静かに過激だ。子どもへの支出は「消えるコスト」ではなく、旅行や外食と同じ構造を持つ効用の購入として分析できる。しかも子どもという「財」には特殊な性質がある。返品も交換もできず、消費期間は数十年に及び、そして効用の大半が——愛情、成長の目撃、関係性——市場価格を持たない。
ここが核心。家計簿は市場価格しか記録できない。だから子どもはコスト側だけが記帳され、効用側がまるごと簿外になる。「割に合わない」ように見えるのは、帳簿の設計上の必然である。
実は、子どもが家計簿上の赤字になったのは歴史的には最近のことだ。社会学者ヴィヴィアナ・ゼライザーが、その転換を克明に描いている。
ゼライザーの『Pricing the Priceless Child』(1985)によれば、19世紀の子どもは農場や工場や家事で家計に貢献する労働力であり、経済的に「役に立つ」存在だった。それが20世紀初頭にかけて、児童労働の廃止と義務教育の普及とともに、子どもは経済的には無価値だが、感情的にはかけがえのない存在へと再定義されていく。
興味深いのは、経済的価値を失った子どもの「感情的価格」が暴騰したことだ。ゼライザーは当時の生命保険や養子縁組の記録から、稼がない子どもほど高く価値づけられていく逆説を追跡している。つまり現代人が直面している「子どもはコストなのに、何より大切」という感覚は、混乱ではなく、約100年前に完了した価値の引っ越しの結果なのである。価値は消えたのではない。経済の帳簿から、感情の帳簿へ移されただけだ。
では、その「感情の帳簿」には何が記帳されているのか。それを直接調べてきたのが Value of Children(VOC)研究である。
VOC研究の古典的な整理(Hoffman & Hoffman, 1973)は、世界各国の親への調査から、子どもが親にもたらす価値を体系化した。愛情と絆、刺激と楽しさ、成長と達成の実感、「必要とされている」という感覚、大人としての社会的地位、人生の意味と連続性、そして(社会によっては)老後の安心。後年のフリードマンらの理論(Friedman, Hechter & Kanazawa, 1994)は、さらに踏み込んで、子どもは人生の不確実性を減らし、進むべき道筋を与えるからこそ選ばれる、と論じた。
このカタログを眺めると、あることに気づく。愛情、刺激、物語、意味、関係性——これらは人が旅行や趣味や推し活に求めているものと、カテゴリーとしては同じなのだ。違うのは規模と期間である。数十年にわたって毎日更新され、双方向で、しかも相手が成長していく。経験消費として見た子育ては、市場で売られているどのコンテンツよりも長期で、濃い。(余暇という経験消費そのものの歴史は余暇の経済学の記事で扱っている。)
旅行・映画・ゲーム・推し活。価格がついているため家計簿に「娯楽費」として計上され、支出が効用の証明として扱われる。
子育て。効用に市場価格がつかないため、家計簿には養育費・教育費というコストだけが写る。効用は数十年分まるごと簿外資産になる。
ただし、正直に言わなければならない。「子どもがいる人のほうが幸せか」という問いへの研究結果は、長らくきれいに割れてきた。
多くの調査で、未成年の子を持つ親は子どものいない人より生活満足度が高くない、という結果が繰り返し出ている。「親は大変そうだ」という直感は、データでも裏づけられてきたのだ。
この膠着に一石を投じたのが、ポルマン=シュルトの分析(Pollmann-Schult, 2014)だ。ドイツの社会経済パネル(1994〜2010年、N=16,021)を固定効果モデルで分析し、子育てに伴う金銭コストと時間コストを統計的に取り除くと、親であること自体は生活満足度に実質的かつ持続的な正の効果を持つことを示した。つまり——
# Pollmann-Schult (2014) の構図
観測される親の幸福 = 子どもの効用(+) − 金銭コスト(−) − 時間コスト(−)
≈ ゼロに見える
コストを統制すると → 子どもの効用(+)だけが残る
この結果の含意は大きい。子どもが親を不幸にしているのではない。子育てに伴う負担の設計——お金、時間、そしてそれを個人に押しつける社会制度——が幸福を削っている可能性が高いのだ。実際、国際比較研究では、保育や休暇制度が手厚い国ほど親と非親の幸福格差が小さいことが報告されている。
結論。子どもは、金銭的には割に合わない。しかし、割に合わないものに人はお金を払う。旅行、推し活、ゲーム、映画、ペット、趣味——それらは利益を生まないが、経験・物語・関係性・意味を生む。子どももまた、家計簿にはコストとして現れ、人生には比類ない経験として現れる。見えないのは価値ではなく、それを記帳する帳簿のほうである。
補足。この記事は「子どもを持てば幸せになれる」と勧めるものでも、持たない選択を否定するものでもない。効用の中身も大きさも人によって違い、持たない人生にも固有の効用がある。ここで示したのは、「コストだけが見える会計」で人生の選択を評価することの危うさ、その一点である。
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