「信仰を持つ人は幸せそうだ」——この印象には、実はかなりの数の研究の裏づけがある。だが同じ研究群を丁寧に読むと、幸福をもたらしていたのは信仰の強さそのものではなく、その隣にいつもあった別のものだった。宗教と幸福をめぐる問いは、「何を信じるか」から「誰と信じるか」へと形を変える。
信仰と幸福に本当に関連はあるのかという全体像、そして効いているのは「信じる強さ」か「集まりへの参加」かを分解した研究、決定打となった「教会でできた友人の数」の媒介分析、さらにその効用は宗教に固有ではないという留保と、世俗的な国では関連が消えるという文化差まで。信仰という見えない効用の、正体の解剖。
この問いは扱いを間違えると、信じる人にも信じない人にも失礼になる。だから数字から静かに始めよう。
結論の全体像はこうだ。宗教/スピリチュアリティと生活満足度のあいだには、小さな正の関係がある。系統的レビューやメタ分析を総合すると、信仰を持つ人はやや生活満足度が高く、縦断研究では信仰が将来の生活満足度を予測することも示されている。ただしその大きさや性質は、個人によって、地域によって、国によって、かなり異なる。
ここで立ち止まる価値がある。「弱いが確かな関連がある」というだけなら、よくある結論だ。面白いのはその先——この関連は、いったい何によって生まれているのか。信じるという行為そのものが人を幸福にするのか。それとも、信仰にいつも付き添っている別の何かが効いているのか。研究者たちはこの問いを追いかけ、少し意外な場所にたどり着いた。
信仰を2つの成分に分けてみる。心の中で信じる強さ(私的信仰)と、集まりに足を運ぶ行動(参加)。どちらが幸福と結びつくか。
ピュー研究所が世界の調査データを分析した結果は明快だった。宗教の集まりに積極的に参加している人は、無宗教の人よりも、そして「所属はしているが不活発な信者」よりも幸福で、市民活動にも活発だった。ここで効いている境界線は「信じているか/いないか」ではない。「集まりに参加しているか/していないか」だ。同じ信者でも、礼拝に通う人と名ばかりの信者では、幸福の景色が違っていた。
しかも参加している人は、宗教以外のあらゆる種類のコミュニティ活動——慈善団体、スポーツリーグ、趣味の会、職業団体——にも参加しやすい傾向があった。つまり宗教への参加は、その人がそもそも人と集まる生活を送っていることのサインでもある。信仰は、幸福そのものというより、幸福を生む生活様式の入り口に見えてくる。
最初の分岐点。宗教と幸福の関連の多くは、心の中の信仰の強さではなく、身体を運ぶ「参加」の側に宿っている。では参加の何が効くのか。次の研究が核心を突いた。
2010年、社会学者リムとパットナムが、この問いにもっとも鋭い答えを出した。
彼らは礼拝への出席と生活満足度の関連を分析し、その関連が宗教コミュニティ内でできた親しい友人の数によって媒介されることを示した。統計的に言えば、礼拝出席が直接幸福を上げているのではなく、「礼拝に通う→教会で親しい友人ができる→その友人関係が幸福を上げる」という経路を通っていた。友人という媒介変数を差し引くと、信仰の直接効果は大きく減る。
彼らの有名な言い回しを借りれば、宗教がもたらす満足の源泉は神学ではなく、隣に座る人にあった。神への信仰の深さ単体では、生活満足度をうまく予測できない。予測するのは、その信仰共同体の中にどれだけ密な人間関係を持っているか、だった。信じる対象ではなく、一緒に信じる仲間が効いていたのだ。
これは前回の「共食」の記事と不気味なほど響き合う。142カ国の調査で、食の幸福の正体が味ではなく「誰と食べるか」だったように、信仰の幸福の正体も、教義ではなく「誰と集うか」に宿っていた。人間の幸福は、驚くほど頑固に社会的なつながりへ回帰する。
ここで公平のために、逆方向の証拠も置かねばならない。信仰の恩恵とされるものは、宗教だけの専売特許ではない。
複数国を比較した研究は、宗教が幸福に効く経路——社会的支援、意味の感覚、希望、対処(コーピング)——を検討したうえで、こう指摘する。これらの経路のどれも、宗教に本質的・排他的なものではない。同じ恩恵は世俗的な手段でも得られる、と。社会的支援は教会以外の共同体でも手に入る。地域センター、スポーツクラブ、大学、職場——人が定期的に集い、支え合い、居場所を感じられる場所ならどこでも。
この留保は、信仰を否定するものではない。むしろ逆で、宗教が長い歴史のなかで「人を確実に集め、結びつけ、支え合わせる装置」として並外れて優秀だったことを浮かび上がらせる。毎週決まった時間に人が集まり、名前を覚え合い、困ったときに助け合う——そんな仕組みを、宗教は何千年も維持してきた。効いていたのが社会関係資本だとしても、それを最も安定して供給してきた容器が宗教だった、という事実は消えない。
最後の鍵は、同じ信仰でも国が違えば効果が変わる、という事実だ。
宗教的な国と世俗的な国を比較した研究では、興味深いパターンが現れる。米国やトルコのように宗教が社会規範として根づいた国では、信仰と幸福に関連が見られる。ところがデンマークやチェコのような世俗的な国では、その関連が見られない。同じ「信じる」という行為が、文化的な文脈によって幸福への効き方を変える。
これは社会関係資本という補助線で読むときれいに説明できる。宗教が社会の中心にある国では、信仰共同体こそが人の集まる主要な場であり、そこに参加することが濃い人間関係と所属をもたらす。一方、世俗化が進んだ国では、人が集まり支え合う場はスポーツ、地域活動、職場などに分散しており、信仰共同体はその選択肢の一つにすぎない。信仰が幸福に効くのは、それがその社会で「人が集まる場所」である限りにおいて——そう考えると、全体像が一本の線でつながる。
結論。神を信じると幸せになれるのか。研究が指す答えは、慎重にこうだ——信仰そのものより、信仰が連れてくる共同体が人を幸福にする。効いていたのは神ではなく、その隣にいる人だった。信仰の幸福は、共食や余暇と同じく「社会関係資本」という見えない豊かさの一形態であり、宗教はそれを供給する、歴史上もっとも成功した容器の一つなのである。
補足。これは信仰の内的・霊的な価値を否定するものではない。意味の感覚や超越的な経験など、社会的つながりに還元しきれない次元の存在は研究者も認めている。また因果の向き(幸福な人が集まりに参加しやすい可能性)も完全には排除できない。本記事は「宗教の幸福効果の大きな部分が社会的つながりを通る」という研究の総体を紹介するものであり、個人の信仰の是非を論じるものではない。
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