「不幸を自覚しない幸福」がある。知らずに満ち足りている人に、豊かさの帳簿を突きつけたら何が起きるのか。見えない豊かさを測る——本シリーズが作った診断そのものに、幸福を損なう危険はないか。測定という行為の影を、自分の装置に向けて検証する。
幸福の測定が抱える二つの正反対の事故——順応した剥奪を見逃す危険と、満ち足りた人に欠落を製造する危険。そして、それでも診断が有害にならないための設計原則。「測らないほうがいい幸福」の見分け方が手に入ります。
満ち足りている、ということに気づいてすらいない幸福がある。帳簿をつけず、最適化もせず、ただ日々が過ぎていく充足だ。
本シリーズは前回、幸福研究10本を10問に落とし込んだ「見えない豊かさ診断」を作った。所得やモノに表れない余剰——時間・つながり・比較との距離——を集計し、あなたは何%取りこぼしているかを帳簿にして返す装置だ。便利で、たぶん役に立つ。
だが、ここで立ち止まるべき問いがある。満ち足りていた人に「あなたの回収率は40%です」と告げたとき、その40%という数字は、もともと存在した欠落を測ったのか。それとも、告げた瞬間に作り出したのか。測るという行為は、ほんとうに中立な観察なのだろうか。
「不幸を自覚しない幸福」には、正反対の二つの顔がある。診断は、そのどちらに対しても事故を起こしうる。
経済学者アマルティア・センが適応的選好と呼んだもの。人は客観的に剥奪された状況でも、期待を下げて「満足しています」と答える。慢性的な貧困や抑圧への順応だ。ヌスバウムはこれを掘り下げ、順応した満足を幸福の物差しにすることの危うさを説いた。この場合、見えない取りこぼしを名指す装置は、正常化してしまった剥奪に気づかせる解放になりうる。
マウスらの研究(2011)は、幸福を強く価値づける人ほど、かえって不幸になることを示した。とくに「幸せで当然」の順境で。高い幸福基準に照らして、自分の今の幸福に失望するからだ。スクーラーらは、幸福の追求と測定はしばしば自己破壊的だと言う。味わっている最中に楽しさを測ると、楽しさが減る。満ち足りていた人に欠落を突きつければ、なかった不幸が生まれる。
測定は、観察ではなく介入だ。体温計は体温を変えないが、幸福の物差しは、当てた瞬間に幸福を動かす。
問題の核心はここにある。同じ「低スコア」が、解放すべき剥奪にも、触れてはいけない充足にも見える。
「つながりの余剰 30%」という同じ数値の裏には、孤立に諦めきった人もいれば、少数の深い関係で足りている人もいる。「時間の余剰 20%」の裏には、搾取的に働かされている人もいれば、没頭できる仕事に幸福を感じている人もいる。装置は両者を区別できない。ただ同じ数字を返し、同じ「取りこぼし」の警告を出す。
これは医療の過剰診断とそっくりだ。無症状の人を片端から精密検査にかければ、たいてい何らかの「異常所見」が見つかる。その多くは放っておいても害のないものだが、見つかった以上、人は不安になり、検査と治療の連鎖に入り、健康だったはずの人が患者になる。今のβ版は、幸福版の過剰診断装置——健やかな人に"欠落"という所見を作り出す構造を抱えている。「大きな取りこぼしがあります」という見出しは、まさにその製造ラインだ。
ではどうするか。答えは、医療そのものが知っている。良い診療は、検査値の異常からではなく、患者の主訴——本人が実際に困っていること——から始まる。無症状の異常値だけで病人を作らない。診断は、あくまで主訴を照らす道具であって、主訴を上書きする権力ではない。
幸福の診断も同じ姿勢を取れる。「最適値からのズレ」を欠損として突きつけるのをやめ、本人が実際に感じている欠落を起点に、研究知見を"照らす"側へ回る。この転換のための、具体的な設計原則が四つある。
見えない豊かさを測るという企て全体に、この懐疑は返ってくる。測定は介入であり、幸福には、測らないことで守られる種類のものがある。
本シリーズの診断βは、この記事の四原則に沿って作り直す。冒頭に主訴の設問を置き、合計の「回収率」を撤去し、警告を選択肢へ言い換え、「あなたは既に十分かもしれない」を正規の結果に加える。装置が有害になるのは、それが人より賢いふりをするときだ。研究の平均は、あなた個人の最適ではない。
結論。幸福を測る道具の価値は、何を明らかにするかだけでは決まらない。いつ黙るべきかを知っているかで決まる。知らぬが仏を、仏のままにしておく判断もまた、豊かさの経済学の一部だ。
——この一本は、本シリーズが自分の測定装置に向けた懐疑である。次回は、この「測れないもの」を国家の物差しに組み込もうとする試み、GDP-B(デジタル時代の豊かさ指標)へ進む。
この記事は、所得と幸福を測る系譜とは別の根——「幸福を測ること自体を疑う」批評の系譜に立つ。矢印は「依拠する親」を指す。
本記事の要約・引用元。数値は各文献の概算値に基づく。
連載の主要記事を1冊に再構成し、書き下ろしを加えたKindle本です。数字では測りにくい豊かさを、所得・時間・関係・自由の視点から読み直します。
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